egota house A・B(2004・2013/設計:坂本一成)
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6月末で閉館となる、資生堂アートハウスを見学してきました。設計は谷口吉生。設計のストーリーが非常に明快で、空間を読み解きながら歩き回ること自体が楽しい建築でした。
一見すると、J字型のプランを回転させて組み合わせただけの、シンプルな構成にも見えます。しかし、一筆書きの順路を巡っていくと、いつの間にか内と外が反転し、明と暗が切り替わり、床の高低も入れ替わっていきます。歩きながら、「まるでメビウスの輪のようだな」と感じました。事務所に戻って作品解説を読んでみると、やはり「メビウスの輪のような錯綜した空間を演出し」と書かれていました。
驚かされるのは、それが一見すると極めて簡潔な平面構成によって実現されていることです。いい意味で「手数」が少ないからこそ、設計の切れ味の鋭さが際立ち、発明的な閃きを感じました。
本当かどうかは定かではありませんが、ト音記号を思わせる特徴的なS字の曲面ガラス壁は、「SHISEIDO」の“S”に由来していると聞いたことがあります。もし、この発明的な平面構成が、長年温め続けた構想ではなく、「クライアント企業の頭文字がたまたま“S”だったから」というところから発想されたものだとしたら、なおさら驚異的です。
天井面には、壁際に沿って照明が走っています。それを見て私は、「当初はトップライトによる自然光だったものが、改修時に人工照明へ変更されたのかしら?」と思っていたのですが、1996年の『新建築 The Japan Architect 谷口吉生』に掲載された詳細図を確認すると、その時点ですでに人工照明だったようです。ですので、竣工当時から人工照明だった可能性が高そうです。(※現在調査継続中。ちなみに2002年にリニューアル・オープン、2016年に設備更新工事が行われているようです。)
とはいえ、やはり、いかにもトップライトを想起させる屋根形状を見ていると、設計初期の段階では自然光トップライトの導入が検討されていたのではないか、と想像してしまいます。紫外線から美術品を守ることを優先し、自然光トップライトの採用を断念し、その痕跡だけを形状として残しながら、内部は設備ダクトスペースとして利用している——そんな経緯だったのではないか、と感じました。
同様の理由から、一部の曲面ガラスには遮光フィルムが貼られていました。
もし自然光がトップライトから差し込み、ガラスもすべて透明だったなら——それはもはや美術館として成立しないのかもしれませんが——どのような空間になっていたのだろうか、と想像せずにはいられません。全体が明るくなりすぎて、現在のような明暗のドラマは薄れてしまうのかもしれませんが、谷口吉生が思い描いた理想の状態を、一度見てみたいと感じました。
展示室入口には、特徴的な半円形の8段の階段があります。作品発表時には手すりが付いていませんでしたが、現在は安全のために手すりが設置されています。その階段で、手すりがあってもなお何人かが少し苦労している様子を見て、私は不覚にも、「やはり、床に高低差のある美術館は、バリアフリーとの親和性が低いよな」と思ってしまいました。
ところが、後で平面図を見返していて、ふと気がつきました。順路にこだわらなければ、この美術館はすべての展示室レベルにスロープでアクセスできるようになっているのです。そのことに遅まきながら気づいた時には、再び痺れてしまいました。
メビウスの輪のような回遊性を持ちながら、その構成によってバリアフリーまでも成立させている。その設計の周到さとレベルの高さ——言い換えれば、「大人な設計」であることを、改めて感じました。
(写真撮影:2026年5月15日※展示品接写以外は撮影OK)
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「哲学する住宅」を設計しながら考えたこと、設計主旨文には書ききれなかったことを、補完としてメモ書きしておきます。
沈黙する中心
1991年12月から翌年1月にかけて、ネパールの聖地ムクチナート(標高3800m)を目指し、2週間かけてトレッキングで登山する旅をしました。その途中、カグベニという村で滞在した宿「レッドハウス・ロッジ」は、驚くべきことにその建物の内部に巨大な仏像を内包していました。
建物の密集した集落の、それほど大きくもない建物。その2階中央に、いったいどこから運び込んだのかと思うほどの巨大な仏像(坐像。高さ3m以上はあったと思います)が鎮座していました。その空間はゴンパ(寺院・瞑想所)でした。
大仏と対峙した時、私は「この建築には紛れもなく生=魂が宿っている」と感じました。そこには、強い信仰と意思、そして覚悟がありました。「哲学する住宅」における、名前を持たない中央の空間のことを考えている時、私はこの体験を思い出しました。
私は、「何があったら良いか」ではなく「何は無くても良いか」という発見のほうが、良い住宅を作ることができると考えています。本当に大切なものを炙り出す引き算の思考です。
「哲学する住宅」の中央にある名前のない空間は、不自然なほど大きく、それを取り囲む俗な生活空間を圧縮していますが、それは、この建築が持つ意思の表明でもあります。
デフォルト・モード・アーキテクチャー(Default Mode Architecture)
脳科学では長らく、「何かをしている時に、脳のどこが働いているのか」が研究されてきました。しかし逆に「何もしていない時に、脳のどこが働いているのか」を調べ始めたところ、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という脳の状態が発見されました。人がボーッとしている時、脳が実は活発に活動していることがわかったのです。
DMN状態では、脳内で自動的に様々な情報が整理され再構築され、バラバラのところにあった情報同士が結びつき、突然良いアイデアが降ってきたり、不安やストレスが客観的に処理され、精神的な回復が起こったりします。
「哲学する住宅」の中央の空間について考えている時、私は「この建築は、ただボーッとするための空間を持ち、デフォルト・モード・アーキテクチャーと呼べるのではないか」と思いました。
五感への入力を制御し、人間の脳をデフォルト(初期状態)に戻し、内面への沈潜を促すための構造体。従来の建築がタスク・ポジティブ(利便性や効率)を追求してきたとすれば、デフォルト・モード・アーキテクチャーはタスク・ネガティブ(内省と休息)を追求する建築です。
それは、「何かをするためにはどんな建築が必要か?」ではなく、「何もしないためにはどんな建築が必要か?」という問いへの転換です。
マインド・ワンダリング(Mind-Wandering 心の彷徨)
マインド・ワンダリングとは、意識が「いま、ここ」で行っているタスクから離れ、内面的な思考や記憶、未来への想像へと自由に彷徨う状態を指します。言い換えれば、能動的にボーッとしている状態です。
この彷徨は、デフォルト・モード・アーキテクチャーのような環境の中でこそ持続します。そのためには、思考を引き戻してしまうような情報から距離を置く必要があります。
例えば、本を読んでいて集中がふと緩み、視線をページから外した瞬間、もし視線の先にテレビがあれば、意識は刺激へと引き寄せられ、心の彷徨はそこで途切れてしまうかもしれません。洗濯物が目に入れば、「家事」という具体的なタスクへと、意識は強制的引き戻されてしまうでしょう。
家具や家電、溢れるモノといった「生活の記号」は、それを見るだけで脳にタスク=外部の物語を想起させます。マインド・ワンダリングに必要なのは、視線が抜けていく先に、処理すべき記号が存在しないことです。
心が邪魔されることなく彷徨い続けられる空間。不要な記号が取り除かれた、静かな余白。そのような環境の中でこそ、マインド・ワンダリングは成立すると考えています。
思索のための行為
「哲学する住宅」の中央空間のような余地や余白では、猥雑な生活感で満たされることなく、Tranquil(静穏)な時間が流れて欲しいと考えています。そこで想定している行為は、ボーッとすること、考え事をすること、静かな音楽を聴くこと、そして本を読むことです。
現代において、気分転換やリラックスといえば、TVを見る、動画を見る、ゲームをするといったことが主流となりつつあります。これらはコンテンツ消費です。本を読むことも同じくコンテンツ消費ですが、両者には決定的な違いがあります。
すべてのデジタル体験を否定するものではありませんが、テレビや動画、ゲームは、脳を休めているのではなく、別の回路を酷使している状態であることが多いと感じています。デジタルデバイスは、常に画面上の一点を注視させ、意識を外部に固定し続けます。
これらアテンション・エコノミーは次々と新しい刺激を与え、Tranquilityとは真逆の状態を作ります。一方、思索や読書は、穏やかな安心感や充足感をもたらします。
デジタルは人を興奮させ、余白を侵食します。読書は人を静止させ、余白と共鳴させます。現代人に必要なのは、溢れる情報や刺激から一度距離を置くための場所ではないかと考えています。
建築内部での出来事を制限することは、一見すると強制的・排他的に見える設計態度かもしれません。しかしそれは、空間の質、余白、静けさを守るためでもあります。
ノイズ・キャンセリング・アーキテクチャー(Noise-Canceling Architecture)
日々の生活に溢れる過剰なモノや情報は、静穏さにとってのノイズだと言うこともできます。
私たちはときどき、たとえば家にいる時間のうちのほんの少しだけでも、そういったノイズから逃れたいと思うことがあるはずです。
「哲学する住宅」の中央の空間は、そうしたノイズからの避難場所です。
何かを追加するのではなく、余計なものを削ぎ落とすことで静けさをつくる。そうした建築は、ノイズ・キャンセリング・アーキテクチャーと呼べるのではないかと思います。
素の建築
現代の建築は、多くの記号と意味を纏っています。その中には、偽物の(騙すための)記号や意味も含まれています。
「素」であることは、不要な記号や意味を脱ぎ捨て、fakeから距離を置き、足し算ではなく極限まで引き算を行い、最後に残った骨格だけでそこに在ろうとすることです。
建築が精神と共鳴し、魂を宿す依代となるためにも、「素」であることは重要な要素であると感じています。
Form follows functionからForm follows philosophyへ
「Form follows function(形態は機能に従う)」は有名な近代建築の格言であり、長らく「正しさ」として語られてきました。しかし私は、本当にそうだろうか?と疑問を持つことが増えました。
そして、Form follows philosophyであるべきではないかと考えるようになりました。機能を超えた「思想」や「在り方」こそが、建築の形を導くべきではないかと感じるようになったのです。
人々は「意味」を求め「無駄」を嫌います。しかし、「正しさ」「機能」「利便性」「無駄のなさ」「意味」と引き換えに、この世界から排除され、溢れ落ちようとしているものの中にも、きっと愛されるべきものはあるはずです。
私は、それらを拾い上げ、建築として組み立てたいと考えています。そうして生まれてきた建築が、人間と親和性を持たないとは限りません。
私は、正しい建築を作りたいのではありません。人がその空間に身を置いた時、「これでいい」と静かに思える建築を作りたいのです。
Form follows philosophyから
Form follows philosophy and Philosophy follows formへ
さらに言うなら、強い「哲学」を持って「形」を生み出し(= Form follows philosophy)、その「形」が人々の感性を刺激し、新たな「哲学」を育む(= Philosophy follows form)。そして、その新たな「哲学」が、また次の新しい「形」を要求する。そうした循環によって、空間・建築と人間との対話が生まれれば良いと考えています。
「居合わせている」こと
人間が主で建築が従なのではなく、建築が主で人間が従でもない。建築は、物語の舞台でも、語り部でもなく、「居合わせている存在」であると思えるような関係が理想です。
住宅で言うなら、住宅は入れ物ではなくキャラクター、舞台ではなく登場人物、道具ではなくパートナー、というような関係です。
車には「愛車」と言う呼び方がありますが、住宅にはそれに相当するものはありません。「マイホーム(家庭・居場所)」とは言いますが、「マイハウス(建物)」とは言いません。
これは、人々が無意識に、住宅を単なる物質=不動産として切り離して考えているからではないでしょうか。建築が、人と車のような関係を築くためには、その建築が、依代となれるような佇まいを持つことが重要です。
Enigma
「哲学する住宅」の外壁には、あえて窓を設けていません。庇も、勾配屋根も、軒もなく、極端に単純な立体で構成しています。それは、わかりやすい記号を纏ってしまうことを避けるためです。
見慣れたものとして即座に意味付けされることを拒み、既知のカテゴリーに回収されないまま、Enigmaticな(謎を孕んだ)存在として、ただそこに在り続けるためです。この建築が「哲学する」状態を保つための、意図的な選択です。
また、それは外部と距離を置くためでもあります。この住宅は外向的な住宅ではなく、徹底して内向的な住宅です。周辺環境に馴染み、姿を消すことよりも、内部における内省的な環境を守ること、そしてその思想をそのまま建ち姿として体現することを優先しています。
この住宅は重量感のある「塊」として構えています。静かでありながら、圧倒的な存在感を持つこと。ただし、それは目立つための存在感ではありません。言語化される以前の価値観、説明される前の感覚を、そのまま立ち上げるための存在感です。
住宅という「物質」を超え、精神を受け止める依代となり得る佇まい。建築がキャラクターを獲得するとは、そうした状態を指すのではないかと考えています。
現実との乖離
この「哲学する住宅」はコンセプトモデルです。「住めない」「強制的だ」「経済原理に反している」という理由で、ほとんどの人に拒否される提案かもしれません。それでも、ごく限られた人に共感してもらえたとしたら、その人たちが理想の住宅について考えを巡らせるきっかけになれば良いと考えています。
この提案は、理想の住宅について語るための、共通言語を探る試行でもあります。
哲学する住宅
この住宅は名称を「哲学する住宅」としています。これは、「それ自体も人間と一緒に哲学しているような建築」を意味しています。
ここで言う「哲学する」とは、「無いかもしれない答え」を探り続けることです。建築自体も自分の在り方を問い続け、意味が固定されない、フワっと浮いているような状態を保ち続ける。そのような建築の在り方を目指しています。
Philosophizing House — Memo
These are notes I wrote while designing the Philosophizing House—thoughts that could not be fully contained in the official design statement, recorded here as a supplement.
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A Silent Center
From December 1991 to January of the following year, I undertook a two-week trekking journey toward Muktinath, a sacred site in Nepal at an altitude of 3,800 meters.
Along the way, I stayed at a lodge called the Red House Lodge in the village of Kagbeni. To my surprise, the building contained a massive Buddha statue within its interior.
In the dense village settlement stood a modest building, not particularly large. At the center of its second floor sat an enormous seated Buddha—over three meters tall, as I recall—so large that I wondered how it had ever been brought inside. The space was a gompa, a place for worship and meditation.
Standing face to face with the statue, I felt unmistakably that this architecture was alive—that it possessed a soul. There was strong faith there, along with intention and resolve.
When I later began thinking about the nameless central space of the Philosophizing House, this experience came back to me.
I believe that asking what can be removed is more important than asking what should be added when designing a good house. It is a way of thinking through subtraction—stripping away what is unnecessary to reveal what truly matters.
The nameless central space of the Philosophizing House is unnaturally large, compressing the ordinary living spaces that surround it. This disproportion is itself a statement of the will embodied in the architecture.
Default Mode Architecture
For a long time, neuroscience focused on identifying which parts of the brain are active when we are engaged in specific tasks. Later, researchers began to examine what happens in the brain when we are doing nothing, leading to the discovery of the Default Mode Network (DMN).
It became clear that when a person is simply spacing out, the brain is in fact highly active. In the DMN state, information is automatically organized and reorganized; previously disconnected ideas link together; sudden insights emerge; and anxiety or stress is processed more objectively, allowing for mental recovery.
As I considered the central space of the Philosophizing House, I began to think that this architecture—by providing a place simply for doing nothing—might be described as a form of Default Mode Architecture.
It is a structure that regulates sensory input, returns the brain to its default state, and encourages inward immersion. If conventional architecture has pursued task-positive values such as efficiency and convenience, Default Mode Architecture instead pursues task-negative qualities—introspection and rest.
It represents a shift in questioning: not what kind of architecture is needed to do something, but what kind of architecture is needed to do nothing.
Mind-Wandering
Mind-wandering refers to a state in which attention drifts away from the task at hand—away from the “here and now”—and moves freely among inner thoughts, memories, and imaginings of the future. In other words, it is an active form of doing nothing.
This wandering can only be sustained within an environment like Default Mode Architecture. To allow it, one must keep distance from information that pulls thought back toward concrete tasks.
For example, while reading a book, concentration may loosen and the eyes drift away from the page. If a television enters the field of view, attention may be drawn immediately toward stimulation, interrupting the wandering. If laundry comes into sight, awareness may be forcibly pulled back into the specific task of housework.
Furniture, appliances, and an excess of belongings—what might be called the “symbols of daily life”—evoke tasks and external narratives the moment they are seen.
For mind-wandering to occur, what is needed is a place where the gaze can drift without encountering symbols that demand interpretation.
A space where thought is not interrupted.
A quiet margin from which unnecessary signs have been removed.
Only in such an environment, I believe, can mind-wandering truly take place.
Acts for Contemplation
In spaces of margin like the central void of the Philosophizing House, I hope for time to flow quietly, without being filled by the clutter of everyday life.
The activities imagined there are simple: spacing out, thinking, listening to quiet music, and reading.
Today, relaxation and distraction are often associated with watching television, streaming videos, or playing games—forms of content consumption. Reading is also a form of content consumption, but there is a fundamental difference between them.
I do not deny all digital experiences. However, television, videos, and games often do not rest the mind so much as overwork a different circuit. Digital devices constantly demand focus on a single point, fixing attention outward.
These attention economies deliver continuous stimulation, creating a state opposite to tranquility. By contrast, thinking and reading tend to bring about a gentle sense of calm and fulfillment.
Digital media excites the mind and erodes margin.
Reading stills the mind and resonates with margin.
What contemporary life may require is not more stimulation, but places where one can step back from the overflow of information and sensation.
Restricting what happens within architecture may at first seem forceful or exclusionary. Yet it can also be an act of care—protecting the quality of space, its margin, and its quietness.
Noise-Canceling Architecture
The excess of objects and information that fills everyday life can be understood as noise that disturbs tranquility.
At times, we may wish to escape such noise—if only for a brief moment while at home.
The central space of the Philosophizing House is a refuge from that noise.
Not by adding something new, but by removing what is unnecessary and allowing quietness to emerge.
Architecture that creates stillness through subtraction might be called Noise-Canceling Architecture.
Raw Architecture - Bare Architecture
Contemporary architecture is often clothed in signs and meanings. Some of them are false—designed to deceive.
To be “raw” is to strip away unnecessary signs and meanings, to keep distance from the fake, and to rely not on addition but on radical subtraction—remaining there with only the final skeleton that is left.
For architecture to resonate with the human spirit, and to become a vessel that can hold something like a soul, I feel that this rawness is essential.
From “Form Follows Function” to “Form Follows Philosophy”
“Form follows function” is a famous maxim of modern architecture, long regarded as a form of correctness. Yet I have increasingly come to question whether this is truly sufficient.
I began to feel that form should instead follow philosophy—that thought and ways of being beyond function should guide architectural form.
People seek meaning and avoid waste. Yet among the things that are excluded or discarded in the name of correctness, efficiency, convenience, and meaning, there may still be elements worthy of affection.
I wish to gather those elements and assemble them as architecture.
Architecture born in this way may still resonate deeply with people.
I do not want to make “correct” architecture.
I want to make architecture that allows someone, upon inhabiting it, to quietly think: this is enough.
From “Form Follows Philosophy” to
“Form Follows Philosophy, and Philosophy Follows Form”
One could go further: philosophy gives rise to form, and form, in turn, stimulates sensibility and nurtures new philosophy. That new philosophy then demands another form.
Through this cycle, dialogue can emerge—between space, architecture, and the human being.
“Being There Together”
I do not wish to think of humans as primary and architecture as secondary, nor architecture as primary and humans as subordinate. Ideally, architecture is something that simply exists alongside us.
In housing terms, the house is not a container but a character; not a stage but a participant; not a tool but a partner.
In Japan, we have a common way of speaking about cars with affection—people even refer to them as a “beloved car.” Yet we do not really have an equivalent expression for a house as a building. We may say “my home,” meaning a sense of place or belonging, but we rarely say “my house” in the same emotional way.
Perhaps this is because we unconsciously separate houses from ourselves, treating them merely as real estate.
For architecture to form a relationship like that between a person and a car, it must possess a presence capable of becoming a vessel.
Enigma
The exterior of the Philosophizing House has no windows. There are no eaves, no pitched roof, no overhangs—only an extremely simple volume. This is to avoid being clothed in easily recognizable symbols.
By refusing immediate interpretation and resisting categorization, the building remains an enigmatic presence, simply existing as it is. This is an intentional choice to keep the architecture in a “philosophizing” state.
The house also maintains distance from the outside. It is not outward-facing, but thoroughly inward-oriented. Rather than blending into its surroundings, it prioritizes protecting an introspective interior and expressing its philosophy directly through its form.
The building stands as a heavy, solid mass—quiet, yet possessing an overwhelming presence. Not a presence meant to attract attention, but one that gives form to values felt before they are verbalized.
To go beyond architecture as mere matter and become a vessel for the human spirit—this, I believe, is what it means for architecture to acquire character.
Distance from Reality
The Philosophizing House is a conceptual model. It may be rejected by most people as “unlivable,” “too restrictive,” or “economically impractical.”
Even so, if it resonates with a small number of people, and becomes an occasion for them to reflect on what an ideal house might be, that is enough.
This proposal is an attempt to find a shared language for speaking about the ideal home.
Philosophizing House
I have named this house Philosophizing House.
It refers to architecture that seems to philosophize alongside its inhabitants.
Here, “to philosophize” means to continue searching for answers that may not exist.
The architecture itself keeps questioning its own way of being, remaining unfixed in meaning—floating, unresolved.
This is the kind of architectural existence I seek.
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竣工から1年経って「花見川の住宅兼店舗」の小屋裏収納が大活躍していたので、その写真を撮ってきました。
この住宅(3人暮らし)は、それぞれの部屋に造作の壁面収納や納戸を用意してあるのですが、それでもやっぱり小屋裏収納にはかなりの荷物が収納されていました。お施主さんも「とても重宝している」とおっしゃっています。大きな箱を、それほど整理せず、とりあえずそのまま放り込んでおけるというのが気楽でいいですよね。
ちなみに、このたっぷりとした小屋裏収納の空気が、屋根からの輻射熱を緩和する断熱空気層の役割も担っています。当日は外気温30度超えの晴れた日でしたが、小屋裏内は思ったほど暑くなくてちょっと安心しました。
(小屋裏収納や納戸は、あくまで「裏」として割り切っており、コストカットのため仕上げはしてありません)
↓北側小屋裏収納(2階寝室横)
↓北側小屋裏収納(2階納戸横)
↓南側小屋裏収納(2階寝室横)
おまけで、以下は納戸などの収納の様子の写真です。
納戸の壁に張ってある緑色のボードは、調湿性のあるボードです。
↓1階寝室の納戸
↓2階の納戸
↓玄関の納戸
(バックスペース。奥の部屋は店舗の倉庫。その奥の出入口は北側駐車スペースからの搬入口。通風引戸)
↓更におまけ。洗面脱衣の収納
洗面脱衣には、涼風暖房機(夏は扇風機のような風が出て、冬はヒーターの暖かい風が出る)が設置されています。乾太くん(ガス衣類乾燥機)も付いています。棚のサイズは、お施主さんにヒアリングの上、決めています。
(写真撮影:2025年09月07日)
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花見川の住宅兼店舗の一年点検に行って来ました。
1年暮らしてみて、温熱環境的には「暑くもなく、寒くもなく」とおっしゃっていたので、安心しました。風通しの良さと、庇の出を気に入って頂いているようです。(この住宅は床暖房はありません。エアコンは付いています。あとはガスヒーターも使えるよう、リビング床にガスコックが設置してあります。洗面脱衣には涼風暖房機が設置してあります)
設計段階では、軒の出の深さ寸法と軒先の高さの設定をかなり迷いました。
カッコイイ外観にするには、軒先の高さを低く見せる方が良いのですが、あまり軒先を深く低くし過ぎると冬の陽光が室内床まで入って来ません。その辺のバランスはかなり迷いましたが、結局、今回は大学の授業で習うような真面目な「窓の高さ寸法:軒の出寸法」の比率に設定しました。
実際の冬(太陽高度の低い時期)の様子を伺ったところ、ちゃんと陽光が室内に入って来て窓辺の床を温めてくれて、冬も暖かいとのことででした。逆に、夏(太陽高度の高い時期)は軒の出が強い日差しをカットしてくれているそうです。やっぱり、基本って大事なんですねw
(下の写真は引越し直前の2024年9月17日14時頃の様子)
小屋裏部屋である2階寝室も、心配していたほど暑いとか寒いとかは無いようで、これも安心しました。
特に夏の暑さを心配していたのですが、屋根勾配が急なため通常以上に屋根内通気(重力換気)がちゃんと機能して、室内がそれほど暑くならないのかもしれません。また、屋根面の断熱に遮熱シート付きの断熱ボードを使ったのも効果を発揮したのかもしれません。
庭では、魔改造が進行中です。お庭はお施主さんとお友達が、少しずつ作っています。今後どうなっていくのか、楽しみなような怖いような、です。
兎にも角にも、楽しそうにお住まいだったので、まずは安心しました。
(写真撮影:2025年9月7日。カーテンの写真:2024年9月17日)
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そろそろ「石垣島の住宅」にもレビューを追加しようかなと思っていたところ、Googleレビューへのリンクを貼ればいいんじゃないかとハタと気がついて、Googleレビューを覗いてみたら今のところ好意的なレビューが多かったので、リンクすることにしました。
時間の経過によってレビューが追加されていくのが面白いかなと思います。いつか低評価のレビューが書き込まれるかもしれませんが、それはそれで仕方ありません。
「石垣島の住宅」は現在、民泊として運営されてるので、「施主によるレビュー」ではなく「ユーザーによるレビュー」ということになります。飲食店などのGoogleレビューだと建築や内装について触れられることが少ないですが、民泊の場合は建築についてのコメントもあります。
↓以下のページ内「石垣島の住宅」のサムネイルをクリックしてみてください。
https://www.ya-archi.com/review/
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「石垣島の住宅」を民泊として運営している会社の方に、写真を送って頂きました。竣工から4年1ヶ月の様子です。これから繁忙期になるので、チェックのために石垣島入りしているのだそうです。「相変わらずゲストには好評ですよ!」とメッセージが添えられていたので、ひと安心です。
「石垣島の住宅」が民泊として好評なのは、運営が凄くちゃんとしているからなのです。
いま、石垣島民泊界隈では巨匠堀部安嗣氏設計の「白保の家」が話題です。この夏くらいにはオープンするのではないでしょうか。私は2年前、GAギャラリーに展示してあった計画案と模型を見に行きました。どんな感じで出来上がるのかとても楽しみです。
「石垣島の住宅」とは場所も少し離れていますし、客層も被らないと思うので心配はありません。そもそも建築費の差が高級車と軽自動車(もちろん「石垣島の住宅」が軽自動車です)くらいあると思うので棲み分けできています。
「石垣島の住宅」は、虫の音や鳥の鳴き声、木の葉のざわめき、遠くから聞こえる波の音、を聞きながらボーーーっとしたい方にオススメです。逆に言うと他になんにもすることがありません。設計時に「テレビも設置しなくていいんじゃないですか?」と提案したら、それは却下されましたw
宿泊に興味のある方はOase AKAISHIで検索してみてください。
(写真撮影:2025年5月20日 民泊運営担当者)
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「花見川の住宅兼店舗」の構造説明動画をYouTubeにもUPしてみました。Instagramよりも見やすいと思います。インターネット上に動画チャンネルを無料で開設できるなんて凄い時代ですね。(ちょっとやってみたかったんですw)以下↓より
Youtubeで動画を見る
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「花見川の住宅兼店舗」の構造の構成を説明する動画を作りました。
このブログ(ココログ)には直接貼れないので、Instagramに投稿してみました。
↓下の「Instagramで動画を見る」をクリックしてみてください。うまく見られるでしょうか?
Instagramで動画を見る
この住宅は一般的な木造住宅と同様、在来軸組工法という構造でできていますが、ただ「平行四辺形だ」というだけで、通常に比べ細部が非常に複雑な構成になっています。今回の工事では、プレカット施工会社(柱や梁などを工場でカット・加工する会社)の担当者の方が非常に優秀な人で、この住宅の軸組(柱や梁など主要構造)の複雑な構成を正しく理解してくださって大変助かりました!
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「花見川の住宅兼店舗」の特徴のひとつは、平行四辺形の平面形状です。
基本設計の途中段階の打ち合わせで「庭を見通すためにポーチは外壁から飛び出させて欲しい」との要望が出て来ました。その後、その要望踏まえたL字型案を色々検討していたのですが、どうしても屋根が複雑(下屋を出す、あるいは、歪な大屋根で覆う)になってしまい、何日も屋根の形状ばかり考えていました。
ある日「今日も全然いい案が浮かばないからもう寝よう…」と歯を磨いていた時に「アレ!?これ、平行四辺形にしたら、ものすごくシンプルな切妻屋根になるんじゃないか!?」とポロっとアイデアが降って来ました。以下はその時の殴り書きメモです。
この瞬間に案がジャンプしました。住まい手のご家族も迷わず平行四辺形の案を選んで下さいました。
屋根形状をシンプルにしたかったのには、主に以下の4つの理由があります。
1)キャラクターのはっきりした分かりやすい(=親しみやすい)建ち姿にするため。
2)雨仕舞いの弱点(=雨漏りする可能性のある箇所)を少なくするため。
3)効率の良い屋根内換気を確保するため(壁内・屋根内の湿気を排出することや、日射による屋根面の温度上昇を抑えることに有効)
4)複雑な納まりを無くし、コストを抑えるため。
なぜ、あの時アイデアが降ってきたのかは、私にも分かりませんw
どうやら私にとって屋根の形というのは重要なようです。
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私が日本の美術家の中で一番好きな須田悦弘の久々の個展が、松濤美術館で開かれているので行って来ました。
2階に給仕室(サロンの軽食を準備するような裏方部屋)があるのですが、その給仕口内のカウンターにも水の入ったガラスコップに刺された花(木彫)が展示されていました(撮影禁止作品)。私がその作品を見ていた時、ちょうど、中庭を介してわずかなスキマを通り抜けた細い太陽光が、カウンター上のガラスコップの水に差し込んで来ていて、とても美しかったです。この事象にはおそらく白井晟一も気が付いていなかったのではないかと思います。須田悦弘が発見し、切り取って見せてくれた”この世”だと思います。2024年12月4日13:00を少し過ぎた時間帯でした。

(撮影:2024年12月4日)
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「石垣島の住宅」は現在民泊として運営されています。現地で民泊のお世話をして下さっている方が、作業の合間に外観と天井の現況写真を撮って送って下さいました。竣工から3年半の様子です。強烈な日差しと高い湿度に耐えて、いい感じでエイジングできているのではないかと思います。
コロナ禍の緊急事態宣言が出ている時期に工事が行われ、その後の観光業の厳しい状況を乗り越えて、この夏もフル稼働だったそうです。
その間石垣島を何度も襲った風速40m/s超級の台風も問題なく無事乗り越えてくれています。防風雨戸(木製戸袋内に収納されて隠れています)を付けておいて良かったです。
このまま年を重ね、ますます渋く枯れた外観になって、石垣島に馴染んでいって欲しいです。
(宿泊に興味のある方はOase AKAISHIで検索してみてください)
(撮影:2024年08月28日)
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友人2人に「ロスコ・ルームを見て来い」と強く勧められ、ホンダS660のMT車を借りて川村記念美術館に行ってきました。ロスコ・ルームは画家マーク・ロスコの描いた7枚の連作壁画が展示されてる部屋です。ロスコはシーグラム・ビル(1958/設計:ミース・ファン・デル・ローエ+フィリップ・ジョンソン)内のレストランに展示するために壁画を描きましたが、レストランの雰囲気が気に入らず、一方的に契約を破棄したそうです。そして今、それらの絵画のうち7枚がこの部屋に展示されています。このロスコ・ルーム(設計:根本浩)はロスコがシーグラム壁画を描くために借りたスタジオの光を再現しているそうです。
駐車場がほぼ満車になる程の来館者数でしたが、1分程度、ロスコ・ルームに私ひとりだけの時間があり、ラッキーでした。
企画展示は西川勝人「静寂の響き」展が開催されていました。作家本人による会場構成が素晴らしかったです。
東京から車で行ってみて、美術館は「そこまでどうやって行くのか=どういう交通手段でどこを通ってそこまで辿り着かせるのか」のデザインも、とても重要な要素だと感じました。
この川村記念美術館は2025年1月下旬から休館するそうです。(加筆:駆け込みで来館者が増え、3月下旬からの休館に変更となりました)
S660(MT車)ですが、一般道ではミッドシップの凄さはイマイチ分かりませんでした…残念!渋滞気味で回転数とシフトタイミングの把握も上手くできなかったので、機会があれば峠道とかで乗ってみたいですね。ちなみに、ターボのブローオフ・バルブの音が聞こえる車を運転するのは初めての経験でした。車高の低いスポーツカーに乗るたびに思うのですが、ずっとトラックに囲まれて移動するのはなかなか辛いものがあります。視線の高いSUVが人気なのは頷けます。

(撮影:2024年9月20日)
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「桜が丘の住宅」の施主より、ダイニングのテーブルを新調しましたと写真を送って頂きました。
新しいテーブルのサイズは2200×1000だそうで、「テーブルが大きいと何だかゆったりと豊かな気持ちになりますね。あの時、有田さんが大きなテーブル勧めてくれた意味がわかりました」とメールには書いてありました。もう8年以上も前のことでよく覚えていませんが、この家には大きなテーブルが似合うだろうなと思って、そんなことを提案した気もしますw
ダイニング・テーブルというのは、その家族の在り方を現わすような気がして、住宅にとって大切なデザイン要素だと思っています。
古いテーブルは2階の子供リビングに移動し、「(子供の)読書と趣味の部屋になりました」とのことです(下の写真)。設計の意図通り使われていてい嬉しいです。
竣工から8年3ヶ月です。
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学生の頃散歩中に見つけ、道路から覗いたことはあったのですが、最近ギャラリーとして一般公開され初めて中に入りました。
挑戦的な部分と堅実な部分が共存した住宅でした。
構造的にはコンクリートの外殻の中に木造の床・壁を組み込んだ混構造で、有田事務所の「石垣島の住宅」と同じ考え方です。全てをコンクリートで造る場合と比べ省コスト・省スペースで、木造の温かみを併せ持つ空間を作ることができます。松川ボックスではコンクリート造と木造が接する部分の取り合いにも設計者の思想が現れているように思いました。
<松川ボックス年表>
1971年第1期工事:大小2つのボックス(北側主屋と南側離れ)が中庭を挟んで対面して建つ
1976年第2期工事:東側に建物が増築され、3棟で四角い中庭を囲む
1979年建築学会賞受賞
1991年第3期工事:離れが取り壊され、壁が曲面の建物が建てられる。中庭は変形となり、柵で2つに分割される
第2期工事後の3棟で四角い中庭を囲んで建つ状態はなかなか素敵だったのではないかと想像します。
今回公開されたのは、北側の主屋です。
(撮影:2024年2月29日)
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もう、極楽浄土です…
念願の豊島美術館。素晴らし過ぎる建築とインスタレーション(美術家:内藤礼)でした。
日本で一番お勧めの美術館は?と尋ねられたら、今までは「軽井沢千住博美術館」だと答えていましたが、これからは「豊島美術館です」と答えるかもしれません。どちらも西沢立衛氏の設計…どんだけ凄いねん!
内藤礼さんは広島の出身なのですね。なんだかちょっと嬉しいです。
美術館の案内の方に「どの時間帯が一番お好きですか?」と尋ねたところ、「閉館後の時間帯です」とのことでした。んー残念!体験できません!因みに、雨の日も雨粒が床に散らばって素敵なのだそうです。
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「幕張の家」の障子が、Houzz内の特集記事で紹介されたようです。
障子を使う場合、私は桟の割り付けやプロポーションを大切にしています。
https://www.houzz.jp/ideabooks/117717499/list
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